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Monday, June 20, 2011

伊江島:アイランド・オブ・レジスタンス ジョン・ミッチェル、沖縄の公民権運動のルーツを旅する

Japanese translation of "Iejima: an island of resistance: Jon Mitchell traces the roots of Okinawa's civil rights movement" published by The Japan Times on May 22, 2011, by Kosuzu Abe

伊江島:アイランド・オブ・レジスタンス
ジョン・ミッチェル、沖縄の公民権運動のルーツを旅する

2011年5月22日
ジョン・ミッチェル

 沖縄本島の本部(もとぶ)からフェリーで30分。伊江島の姿がだんだんと見えて来る。まず「たっちゅー」と呼ばれる山が、島の名産ピーナッツ黒糖のかけらみたいに、波の向こうに現れる。次に、船のディーゼルエンジンの悪臭を素敵に変えるのは、風に運ばれる満開のハイビスカスの香りだ。最後に、一面のサトウキビ畑、カーキ・グリーンのたばこ畑、そして白い砂浜が、島の南岸に広がっているのが見えて来る。

 間違いなく伊江島は美しいところだ。だが、ちょっと深く探れば、その豊かな赤い土の下には、あまりに多くの苦難が横たわっていることが判る。

 訪問者はたいてい、1945年沖縄戦のときに島周辺で起こった戦闘の蛮行を知っている。ピューリッツァー賞を受賞した従軍記者アーニー・パイルが1945年4月18日に亡くなった場所の記念碑で足を止めて撮影する人や、戦跡として残った公益質屋跡によじ登ったりする人もいる。

 だが、「命どぅ宝の家」資料館の訪問者記帳ノートを見れば、伊江島の二度目のアメリカ侵攻、つまり1955年に起こった出来事はあまり知られていないことがわかる。

 「この島で『戦後』という言葉は使いません」、資料館を管理する謝花悦子さんは語る。「私たちにとっては、いまでもまだ戦争地帯に暮らしているようなものです」。

 掘っ立て小屋のような資料館のなかで、56年前、米軍が伊江島の西半分を射爆場にしようとした際に密かに撮影された写真が、当時の記録を物語っている。

 米支配下の沖縄全土で、当局は当初、地主をだまして自主退去書類にサインをさせようとしたと謝花さんは言う。ところが、退去を拒否した数家族に対して、300名もの米兵が銃剣とブルドーザーでやってきて、女性や子供たちをベッドから引きずり出し、家は叩き潰され、山羊も殺されてしまった。

 「そのときでした、阿波根先生が決断したのは」。謝花さんは、日焼けした笑顔の男の大きなポスターを指しながら言った。

 阿波根昌鴻、沖縄の公民権運動の父として知られるその人物は、いわゆる普通の農民ではなかった。若い頃にキリスト教に改宗し、稼ぎを得ようとキューバに移民した。伊江島に戻ってから、禁酒運動に乗り出す。酒飲みの島人たちに泡盛をやめるよう説得した経験は、後年、アメリカ人に島を去るよう説得するための練習に、多少は、なったかもしれない。

 英国支配下のインドにおける、ガーンディの受け身による抵抗の主義主張にヒントを得て、阿波根は、米軍に立ち向かう農民たちの教訓「陳情規定」を作成した。挑発にのらないことや、個々のアメリカ人の内的な善良さを信じようとする姿勢などが含まれている。これらの規定は、資料館の壁に大きく書かれてあって、現在もなお、米軍基地と闘う沖縄全土の闘争を触発し続けている。

 今日もなお影響力を持ち続けている手法のひとつが、大衆デモの組織化だ。1955年7月、阿波根は土地を負われた農民とともに、自分たちの処遇について人々に伝えるため7ヶ月に及ぶ沖縄本島巡りを行った。米国が沖縄の報道を厳しく検閲していた時代に、この「乞食行進」は農民たちの苦境を広く知らせることに成功した。それでも米軍は島から出て行かなかった。

 伊江島に戻ると、農民たちは強制移住先の荒れ地でのテント暮らしを強いられた。収穫を奪われたかれらは射爆場周辺でスクラップとして売るための鉄くず集めに頼った。資料館の写真は、この捨て身の行動の悲劇的な結末を物語る。農民たちは米兵に狙撃され、流れ弾に当たり、不発弾の信管を取り除くのに失敗して手足を吹き飛ばされた。

 このような悲惨にもかかわらず、阿波根と農民たちは米軍の良心に訴えることをあきらめなかった。

 何年も続いた粘り強い抵抗は、実を結んだ。かれらは寝ずの番で、沖縄のいたるところで発生していた犯罪を防ぎ、使用していない演習地での耕作権を勝ち取ったのである。「しかし今日もなお」と、謝花さんは言う。「伊江島の約30パーセントは米支配下のままです」。

 資料館を後にして、アメリカの基地を自分の眼で確かめるため、西海岸に向かった。実弾演習は移転されたものの、パラシュート降下訓練での使用は続いている。有刺鉄線のフェンスが伊江島に広がる肥沃な耕地を閉ざしている。基地の外側で、農民たちのかがり火の灰のなかに見つけた焼け焦げた薬きょうやロケット弾の尾翼が、鉄くず集めで命を落とした島の人々の苦い収穫を思わせた。

 少し歩けば、アルファベットのAの形をした建物が見える。壁には真新しいペンキでスローガンが書かれている。阿波根と農民たちが、米兵が基地の外で逸脱した行為をしないよう見張った小屋である。ここを拠点に1966年には、核弾頭搭載のナイキ・ミサイルの配備阻止闘争で成功を収めた。

 デモ参加者でいっぱいの小屋の写真を思い出しながら、窓越しになかを覗いてみた。最近塗り直された外観が嘘のように、中は埃とクモの巣だらけで放置されているようだった。

 私のそばを年配の農家の男がトラクターで通りかかった。資料館から来たばかりだと知ると、自分は阿波根さんの知り合いだったよと教えてくれた。「阿波根先生は全人生を伊江島島民のために尽くした人、ヒーローだったよ」と力強く語った。

 壊れかけた建物を指さして、最近の反基地運動について尋ねると、島民の大半は地代をもらって日本政府に土地を明け渡し、公共事業に使われていると教えてくれた。来る途中に見かけた風景が、こうした政策をよく表していた。伊江島の村役場は沖縄本島の都市部と同じように大きなものだったし、巨大な地下ダム建設の看板も出ていた。

 このような開発工事を見たら阿波根さんはどう思うだろうかと尋ねると、ちょっと気まずい雰囲気になった。少しの間、真新しいトラクターに視線を泳がせた後、エンジンをかけると、今夜はお祭りがあるから、不幸な島の過去をほじくり返すよりも、そっちのほうが楽しい話が聞けるよと言った。

 私はこの農家の忠告に従うことにした。1955年、アメリカ人が上陸した場所のすぐそばに、伊江島で唯一のリゾート施設がある。ホテルは普段は有名なダイビングポイントへのツアーをやっているが、今夜はこのホテルの年に1度の祭りで、島中から人が集まるらしい。

 ステージで演奏していたロックのコピーバンドはとても上手くて、しばらくは口パクだと思い込んでいた。腰を振って踊るメインボーカルの詞がウチナーグチの替え歌になったところで、ようやく気がついたほどだ。50年代風のツイスト・アンド・シャウトに沖縄スタイルの歓声とカチャーシーの手踊りがブレンドされて、客たちは盛り上がっていた。

 聴衆の前の方に、3人の外国人を見つけた。民間人のシャツとズボンを着けていた彼らを米兵だと見破ったのは、そのクルーカットの髪型のせいではなく、肩を回すような踊りかたや、互いに見せ合うギャング風の仕草からだった。島の人々は誰もが、かれらを遠巻きにしており、ただ、島の子供たちのグループが、若者たちの背後で、そのマッチョなダンスの動きを真似していた。気配を察知して外国人が振り返る。子供たちは動きを止めて無邪気を装う。アメリカ人たちが視線を外したとたんに、子供たちは仲間内で笑いあい、ズボンの股を掴む物まねを再び始めた。

 島のどこへ行っても、阿波根の伝統が忘れられつつある。だが、ここでは、少なくとも一晩くらいは、伊江島の抵抗の精神が活き活きと今も息づいていることを見て元気を得られることだろう。

伊江島への行き方:那覇空港から本部へ車ないしはバスで2時間。伊江島行きのフェリーは1日4便、夏季は増便もあり。
時刻表は以下のリンクで確認できる。http://www.iejima.org/ieson/index.php?oid=93&dtype=1000&pid=91
フェリー乗り場付近にレンタル自転車あり。

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